山口市の幕末維新の歴史

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幕末ドラマチック山口

広沢真臣旧宅跡

場所:山口市緑町

登場人物:広沢真臣、木戸孝允、毛利元徳他

時:明治元年(1868)~明治4年(1872)


◎広沢真臣について
 広沢真臣(ひろさわ さねおみ)は、長州藩士柏村安利の四男として、天保4年12月29日(1834年)に生まれました。
 藩内のエリートコースを順調に昇段し、内訌戦では投獄されましたが、高杉晋作らが実権を掌握すると、政務役として藩政に参加。慶応2年(1866年)には幕府使者勝海舟との第二次長州征伐についての交渉を務め、慶応3年(1867年)には討幕の密勅の降下にも尽力しました。
 明治維新後は、長州藩から参与に初めて選ばれ、様々な要職を歴任。木戸孝允と二人で長州藩を代表し、広沢は主に中央での仕事を担いました。
 明治2年(1869年)、復古功臣として木戸孝允・大久保利通と同じ永世禄1,800石を賜ったことからもわかる通り(※藩士の位では西郷隆盛が2,000石と最高。大村益次郎は木戸らに次いで1,500石。長州藩士からは他に、前原一誠・山県有朋・山田顕義が600石、木梨精一郎・寺嶋秋介が450石、桂太郎が250石)、維新における功績は大きなものがありました。
 その後も、民部大輔や参議の要職を務めましたが、明治4年(1871年)1月9日、東京の私邸で暗殺されました。天皇の命で暗殺犯が捜索されましたがついに判明しませんでした。
 東京の松陰神社に墓があります。また、山口市赤妻に広沢夫妻の分骨墓があります。
 松陰神社にはまた、大正14年(1925)広沢の神道碑が建立されています。(※神道碑は勅撰銅碑ともいい、明治天皇の命で国家に功績のあった8人――毛利敬親・木戸孝允・大久保利通・三条実美・大原重徳・広沢真臣・島津久光・岩倉具視――を顕彰する目的で建立されました。わずか8人のうちに入っていますから、維新における広沢真臣の功績の大きさがわかります。)
 また、明治12年(1879)に木戸孝允の木戸家、大久保利通の大久保家とともに、広沢家は華族に列せられました。華族令制定以前に士族から華族になったのはこの三家だけです。

◎広沢真臣旧宅跡について
 瓢箪型をした山口盆地のくびれた部分に障子ヶ岳という標高118mの小山があります。大内氏の時代には山城が築かれており、弘治3年(1557年)大内義長の遺臣が大内義隆の遺子問田亀鶴を奉じて挙兵し、すぐに鎮圧された場所です。
 障子ヶ岳の南西側、熊野神社の脇から山水園へ至る道をさらにまっすぐ行ったつきあたりあたりに、広沢真臣の旧宅跡がありました。
 いつからそこに住み始めたかはわかりませんが慶応元年以降とおもわれます。
 広沢真臣の残した日記は慶応3年末の上京から亡くなるまで書かれており、その間の事はわかります。
 しかし、そのころはほとんど上京して活躍しており、山口に戻ったのはわずか2回。それも短い間でした。

右建物が山水園旅館。道のつきあたりのさらに奥が邸宅のあった場所と思われます。
湯田の熊野神社のわきに奥に入る道があります。右が障子ヶ岳です。



◎木戸孝允との関係
 木戸は広沢と同じ天保4年生まれの同い歳です。
 家族ぐるみで仲が良かったのでしょう、木戸の明治以後の日記をみると、広沢の留守宅にちょくちょく様子をみに訪ねています。
 明治3年のときは東京で活躍する二人の帰郷が重なりました。お互いの家を行き来しており、あるときは二人で馬に乗って大村益次郎の墓参りを兼ねた遊山めいた小旅行をしています。仲が良かったようです。
 その直後に二人は山口から旅立ち、それが最後の別れとなりました。
 明治維新直後の木戸にとって広沢と大村益次郎が中央政局において最も頼りとなる二人でした。しかし、明治2年11月5日に大村が襲撃の怪我で亡くなり、明治4年1月9日に広沢が暗殺され、以後は長州藩を一人で代表することとなり、重い荷が肩に乗ることとなったのです。


 広沢真臣と木戸孝允の日記より山口滞在中の記述抜粋

●明治元年(1868)

 この年、木戸孝允は、閏4月14日から5月7日まで、山口に帰っていました。
 その間の日記より、広沢の名前が出ている部分を抜き出します(読みやすく書き換えています)。
■閏4月22日
 大雨なので朝、広沢(※広沢真臣)の留守を訪ねた。家内安全だった。
■閏4月23日
今日、椙原治人が京都より帰った。広沢障山(※障山は広沢の号。障子ヶ岳からとったか)の書が届いた。
■閏4月24日
 小松(※小松帯刀)、広沢(※広沢真臣)等への書簡を書いた。
■5月7日
 晩に近所または広沢の留守宅を尋ねたのち出発した。

 この年、広沢真臣は、10月5日から12月11日まで、山口に帰っていました。
 すでに障子ヶ岳ふもとの家に住んでいたと思われます。
 この間の日記より、自宅にまつわる記述を、わかりやすく書き換えて紹介します。

■10月5日
 帰山。夜六時二十分、下宿。
■10月6日
 終日来客。
■10月7日   昼のあと御屋形へ出る。夕七つ時に済んで下宿。
■10月8日 
 夕、大和より御堀へ行き、ついに一泊。
■10月9日 
 御堀より帰り、諸人一同と松原へ行き、夜十二時帰宅。
■10月10日
 終日来客。夜山県、井上五郎三郎、御堀などが来て話す。
■10月14日
 御前会議出勤。
■10月17日  会津降伏などの報知のため片山正作が帰国。
 興国寺(現在の常栄寺)へ参拝。椙原を訪ねる。
 寺内暢三が津和野への使者の途中、山口に来て、今晩来訪一泊。京都の奇談多い。
■10月18日
 御館へ出る。夜、寺内と御堀氏を訪ね一泊する。
■10月19日
 政事堂出勤。
■10月21日~23日
 出勤。
■10月23日
 柏村家の実母が昨夜、山口に居る実兄(柏村数馬)の旅館を訪ねてきたので、今朝逢った。今晩当家に来て泊まる。
■10月29日
 山縣弥八が明朝上阪するので暇乞いのため来訪。
■11月6日
 藩主のお供で萩へ。
■11月30日
 帰山。
■12月5日
 御屋形の御小座敷において次の通り、御直に仰せ聞かされた。
 一 御紋七々子御羽織一
 一 金五十両
■12月11日
 朝廷より至急再上京するよう命令があった。今朝四つ時、山口を出発。


明治3年

 この年、木戸孝允は明治2年12月29日から明治3年5月20日(4月21日~5月14日薩摩行)まで山口に滞在しました。

■1月14日
 朝、大久保利通と黒田清隆を訪ねた。十二時すぎ、広沢の留守宅を訪問。すぐに帰家。


 また、広沢真臣は4月5日から4月22日の短い期間、山口に滞在しました。  これが山口での最後の日々でした。

■4月5日
 東京より山口に帰郷。
 夕六時、障子ヶ嶽下の家宅へ帰着。
 家じゅう残らず、ならびに兄の柏村家内そのほか、安全大賀を祝してたくさんの来客があった。
■4月6日
 藩庁が休暇なので一日中家にいた。来客がたくさん。
■4月7日
 朝九時、藩庁に出勤。夕三時、退出。
 夕、兄の柏村大参事のところで集会。御用談をすませ夜十二時帰宅。
■4月8日
 朝九時、藩庁出勤。夕四時帰宅。
 夕、柏村大参事中その他が来て話す。夜十一時、分散。

(木戸)
 五時、山口に着いて、御館の前で広沢そのほか藩政府諸人に逢った。
 広沢と会う約束をする。
 薄暮、広沢の家に行く。東京の事を聞く。諸氏と数杯を傾けて去る。このときが十時過ぎ。

■4月9日
 木戸孝允が萩より山口に帰ったので、すぐさま来て話す。
 今朝八時、木戸の家へ行く。内外の御用について寛談。
 夕二時、木戸といっしょに藩庁に出て、六時退出。
 夕、柏村大参事中木戸一同、片山亭で集会。御用相談すませ、夜十二時帰宅。

(木戸)
 晴。朝客来。
 十時すぎ、広沢が来た。旧冬来の元因また今日の情勢を論じた。二時頃ともに登館した。

■4月10日
 朝十時、藩庁へ出勤。夕四時退出。
 夕、柏村大参事一同、木戸宅へ行き寛話。夜十時帰宅。

(木戸)
 妹、彦太郎等が来た。

■4月11日
 藩庁休暇につき終日家にいた。
 宍戸、杉、野村、柏村大参事、木戸等が夕方来て話す。夜十一時分散。

(木戸)
 微雨又晴。久保断三、粟屋多助が来て朝鮮の事を話す。野村素介もまた来る。
 二時後、ともに広沢宅に至る。宍戸等がいた。杉猿村に途中に逢う。
 帰途、中山に至る。

■4月12日
 朝十時藩庁出勤。夕四時退出。
 夕、五十鈴御殿(※毛利元徳の居館)へ木戸と一同召し出され、殿様夫婦の御前で御酒を頂戴。
 夜十一時帰宅。

(木戸)
 夕、五十鈴御殿へ御召があり、五時退出。
 御夫婦様の御揃にて御酒を賜う。不覚にも大いに酔った。十二時頃退散。広沢も同様。

■4月13日
 朝十時藩庁へ出勤。十二時退出。
 昼、大津、寺内などへ行く。夕二時帰宅。
 夕、高杉、松原、兼重大監察ならびに林良輔が来て話す。夜十時分散。

(木戸)
 晴、野村素介が来て談ず。
 十二時後、広沢宅に至る。(※不在ですれ違いか)
 又高杉宅に至る。杉と約束し杉助右衛門楼に至り相談す。八時過ぎ家に帰る。

■4月14日
 朝九時、藩庁へ出勤。十二時退出。
 興国寺(※現在の常栄宅)へ参詣。ならびに藤田、小幡などへ行く。薄暮帰宅。

■4月15日
 朝九時、木戸と小郡へ行く。東津の秋本家にて小休息。それより今宿の大村益次郎の故兵部大輔宅へ行き神拝。墓所へも神拝。それより夕四時、秋穂の有富源兵衛方に泊まる。
 夕三時より、知藩公が遠乗で小郡台道へ泊まり、明日三田尻を廻って御帰殿のことを、秋穂において承知する。

(木戸)
 晴。今日、広沢と約束があり、七時すぎ、ともに小郡に至り、秋元に小憩。十二字過ぎ、大村宅に至り、又墓に詣でる。重見次郎兵衛が秋元に来て同行し、又重見の宅に小憩す。四時秋穂に至り、有富宅に一泊す。平原平右衛門もまた来る。重見、北川が来る。このとき君上俄に小郡より三田尻へ廻り、今晩台道に宿泊なり。依て両氏とも俄に去る。今日途中雨にあう。

■4月16日
 秋穂滞在。平原平右衛門宅に泊まる。北川清助と重見次郎兵衛が訪ねて来て寛話。

(木戸)
 晴。朝食を食し、広沢と市中を散歩し、平原宅に至る。重見、北川もまた来る。ちょっと酒を呑んで談話。又碁を囲む。一日滞留。

■4月17日
 朝八時、秋穂出発。夕一時、帰宅。

(木戸)
 八字秋穂を出て、小郡で北川に別れ、一時過ぎ帰家。

■4月18日
 朝十一時、藩庁出勤。夕三時退出。
 御父子様(※毛利敬親・元徳)御前に於いて、今般帰国懸苦労につき左の通り拝領。
  御紋附御縁頭 一
  同黒羽二重御綿入 一
 夕、木戸ら一同と五十鈴御殿に罷り出で、殿様御殿に於いて御茶菓を頂戴。御寛話があり、夕六時退出、帰宅。

(木戸)
 二時後、五十鈴御殿に行き、君公に謁す。四時すぎ退出。

■4月19日
 夕四時、知事公(※毛利元徳)が家に来られる。木戸、兼重淳輔と内鴨御取持として来られ、御寛話。御酒饌を差し上げ、夜九時に御帰殿された。
 即刻御礼のため参殿。

(木戸)
 広沢宅に行く。今日は君公が広沢宅へ御成り。よって昨日広沢と約束した。夜に入って君公は帰られた。私は十時に帰家。

■4月20日
 早朝に親類、知因先をまわり、九時に藩庁へ出勤。夕六時退出。
 知事公御父子様へ拝謁。御暇乞いを申し上げる。朝廷に御用への御用を聞かされた。
 大御前様へ伺いの為に拝謁。
 夕五時、枕流亭において柏村大参事そのほかの招きで、木戸、野村など東行の面々の暇乞いの振舞のこと。夜十一時帰宅。

(木戸)
 晴。十字登館。一時退出。
 今日薩人書生(以下二行空)八名を湯田瓦屋に招く。
 鹿島治吉、岩本治兵衛など萩より来る。
 今夕、久保、山縣、柏村、杉、宍戸、吉田、佐藤等が、余、広沢、野村を枕流亭に会す。送別の意なり。九時頃退出。

■4月21日
 早朝より所々回勤。
 朝十一時、天花焔硝蔵上より失火。山火事烈風にて、御屋形に近火につき、御窺罷り出る。鎮火につき夕三時帰寓。
 暇乞いの来客多数。

(木戸)
 七時出立

■4月22日
 山口出発。朝九時発。
 夕二時、三田尻町五十君真四郎方に到着。
 東京へ野村、権大参事、落合百合吉など同道なり。
 大津四郎右衛門、国重徳次郎、江木清次郎、佐々木男也、三好軍太郎、杉山松介、品川弥次郎など三田尻まで送りくる。藤松吉之助方にて別杯。楫取素彦、岡義右衛門、平原平右衛門などあつまり盛宴。夜二時送別。
 すぐさま龍ヶ口で第二丁卯丸に乗り組み、三時碇を揚げる。



●このあと、広沢真臣は暗殺されます。

明治4年
1月9日午前2時
 広沢真臣、東京で暗殺される。

1月11日10時
 広沢家で棺前祭式が執行。
 同日12時頃 青松寺へ向けて出棺。
 葬列55名(ほかに行列総括人2菜、輿丁1名)
 それに葬列の前後に御親兵30名、山口藩兵240名。

1月21日9時
  広沢に随従して上京していた藤井善之助が山口に帰着し、広沢の兄・山口藩権大参事柏村数馬のもとに落命の悲報が届く。
  柏村は近親の波多野藤兵衛、真鍋藤三、石川親助に連絡を取る。また藩庁へも届け出る。

1月24日
 前日に柏村から書簡を預かった藤井善之助と、藩知事代理として近侍の笠原團蔵が代拝のため、この日出発。

後日、 
   覚
 故広沢兵助遺髪到着之上、泊瀬招魂場境内江致埋葬度奉存候間、右土地拝借被仰付被下候様奉願候、・・・・・・
 正月   真鍋藤三   波多野藤兵衛

  (※よって、赤妻招魂場の一角に広沢の遺髪を埋葬するための土地が確保された。)

1月28日
 山口における広沢の神葬祭執行

2月8日
 五十日祭の折に遺髪が赤妻神社境内に埋葬。

参照: 「国葬の成立―明治国家と『功臣』の死」 宮間純一著 勉誠出版


 木戸孝允は、1月22日に、神戸で広沢真臣の死を知りました。
「驚愕悲憤、しばらく声が出なかった。
 槇村の書状が届いて広沢の変の始末の大略を知った。
 広沢は昨冬、書を送ってくれた。その書を出し、永訣を思い、何回も読み返し、涙がたえず流れた。
 王政一新のさい、広沢一人が政府で私を助けてくれた。兄弟が死んだ知らせを受けてもここまで歎かない。」


明治4年

 3月29日には、1月9日に暗殺された広沢真臣の遺髪が山口に帰ってきたので広沢宅で迎えています。
 じつは前日の28日に、毛利敬親が逝去しており、悲しみがさらに増していました。

■3月29日
「(前略)(毛利敬親の)御寝所御遺骸を拝す 実に不堪惨歎四字退庁 御墓地を巡見し五字過帰家
 今日広沢謙蔵幷従者とも障岳故友の髻髪を護帰す 依て広沢の宅に至り迎侍す 大津柏村の二氏来在 八字頃着 九字頃帰家 終日思君痛歎悲泣又思友流涕悲歎不可語之心情」

 5月11日には、大和(※大和弥八郎?)高杉(※高杉晋作)長嶺(※長嶺内蔵太?)広沢(広沢真臣)の未亡人を招いています。このときは森清蔵妻(井上馨妹)と井上馨も来訪しています。

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