山口市の幕末維新の歴史

HOME >> 山口市の幕末維新の歴史|幕末の舞台 >> 三文字屋跡

幕末ドラマチック山口

三文字屋跡

場所:山口市大殿大路

登場人物:国司信濃、久保断三、吉田稔麿、入江九一、加藤有隣他

時:文久3年(1863)~明治4年(1871)


◎三文字屋について
 三文字屋は大殿大路にあった紙問屋の屋号で、杉山家が営んでいました。
 杉山家はもともと安芸国吉田荘で毛利氏に仕えていた武士です。防長二州に毛利氏が移封したときに山口に移り住みましたが、名字帯刀を許されたまま「召放」となり、町方豪士として、大殿大路で商いを生業としました。
 元禄時代に三文字屋を屋号とし、初代創業を成し、紙を扱う御用商として繁栄しました。1800年代初頭には、藩内の流通に伴う紙税の取り立てを代行するようになり、紙問屋元締めとして藩行政に尽くしました。
 昭和52年に社屋を移転させるまで、この地で営んでいました。
 現在跡地は駐車場となり、かつてここに三文字屋があったことを示す看板プレートが設置されています。

大殿大路。右駐車場が三文字屋跡。
左駐車場が三文字屋跡。横切る道が竪小路。

駐車場の端。門は十朋亭への入口。
三文字屋跡。背後は十朋亭。

駐車場の両側の壁面にあります。
最近杉山氏により設置のプレート。

建物は約10年前になくなりました。
左端の建物は駐車場前のもの。


 文久3年4月、藩庁が萩から山口に移りました。大勢の藩士も山口に移りましたが、家屋不足のため、商家や庄屋に家や部屋を貸し出すよう藩が命じました。
 三文字屋も藩士に貸出し、多くの人が滞在しました。
 とくに三文字屋が「政府人宿」とみなされていたこと、久保断三が新たな勤務先を教えられること、政務座に勤めていた中村誠一の名が頻繁に出てくることから、政務座の人のための事務所兼宿屋になっていたかもしれません。
 三文字屋の隣が久坂玄瑞や伊藤博文、井上馨、周布政之助が泊まっていた十朋亭。向かいが山県有朋、高杉晋作が泊まった古見家。ここらあたりは幕末の有名人の足跡が色濃く残っている場所といえます。

 では、三文字屋での出来事を紹介します。

◎文久3年(1863)

■5月21日、国司信濃が三文字屋へ一応着いて、すぐに御屋形の政事堂へ出たところ、益田右衛門介親施そのほかが会議中だったので、宿にさがり待つよう言われて下がりました。
 翌日国司は、御屋形へ出たところ、久留米へ行き、幽囚中の真木和泉らの赦免の措置や、久留米藩を尊皇攘夷に藩論統一するよう指示を受け、日が暮れる前に山口を出ました。

※国司信濃親相
 天保13年(1842)藩士高洲家の次男として生まれ、のち国司家の養子となる。下関砲撃事件では功績を挙げた。元治元年(1864)禁門の変で出陣し敗北。その責任を取って切腹した三家老の一人。

■6月26日、久保断三が「政府人宿三文字屋」を訪ねて、山口の明倫館勤務を伝えられます。
 

※久保断三(松太郎・清太郎)
 天保3年(1832)萩の藩士に生まれる。父は松下村塾で教えており(伊藤博文や吉田年麻呂が学ぶ)、有名な吉田松陰のはその後を継いだもの。船木代官、上関代官などを経て、いまの徳島県や三重県の県知事役を務めた。明治9年退官。明治11年(1878)没。

■7月5日、白石正一郎が下関から山口に着きました。
 夕方、急に三文字屋に呼び出され、政務座(藩の重要な役職名)中村誠一より士分に取り立てられたことを言われました。

※白石正一郎
 文化9年(1812)下関の問屋に生まれる。幕末、数多くの志士を援助したことで有名。奇兵隊にも入り、士分に取り立てられた。明治以後は赤間神宮宮司を務めた。
※中村誠一(雪樹)
 天保2(1831)萩の藩士に生まれる。文久3年3月8日の役職改編で発足した政務座に発足当初から9月26日まで勤める。その後も役職を歴任し、明治7年それまで勤めていた県典事を辞め、以後は地元の萩の教育に尽力する。明治22年初代萩町長。明治23年(1890)没。

■7月6日、白石正一郎は政務座に会いに三文字屋へ出ました。吉田稔麿も昇進に付き、一同で出ました。

※吉田稔麿(年麻呂)
 天保12年(1841)萩の中間の家に生まれる。松下村塾に学び、四天王の一人といわれる。文久3年、士分に取り立てられる。奇兵隊に参加。元治元年(1864)池田屋の変で亡くなる。

■7月23日、久保断三は三文字屋へ行き、江戸風説・薩摩飛脚咄など見ました。

■7月27日、久保断三はまた三文字屋へ行きました。

■9月3日、加藤有隣が京都から山口について、三文字屋へまず行きました。そこで中村誠一に会い、村田・桂連名の伝書札を渡しました。さらに旅宿については三文字屋の亭主が奔走してくれて、周布政之助が出発したあとの萬代家十朋亭に入りました。

※加藤有隣(桜老)
 文化8年(1811)水戸で藩士に生まれる。笠間藩加藤家に養子に入り、儒者を勤める。藩の内紛に関与し、隠居して塾を開く。文久2年(1862)長州藩に招かれ、翌年山口に着きました。湯田の三条実美の何遠亭を名づけたことで有名。明治以後は教部省などに勤めました。明治17年(1884)没。

■9月13日、久保断三が夜、三文字屋へ行きました。

■9月18日、久保断三が昼から三文字屋へ行きました。

■9月21日、久保断三が三文字屋へ行き、そこで入江九一、吉田稔麿らに会いました。奇兵隊が、秋穂から三田尻へ移陣し、七卿の警衛するよう藩から命じられたと知りました。

※入江九一
 天保8年(1837)萩の足軽に生まれる。松下村塾に学び、四天王の一人と言われる。文久3年、士分に取り立てられる。奇兵隊創設に尽力する。文久3年9月17日から24日まで山口に滞在。翌年の禁門の変に参加し、亡くなる。

■9月24日、久保断三は昨夜に杉が着いた件で三文字屋へ行きました。この日、中村九郎・来島又兵衛・久坂玄瑞らが京都より昨夜帰ったことを知りました。

■吉田稔麿の9月25日付父宛ての書簡
 「江戸行が中止になったことについて三文字屋へ行った。」

■10月3日、加藤有隣は、夜に入り、山口に着きました。その晩は天神祭で、賑わっていました。三文字屋に入り、山田氏、佐世氏に手紙を書き、夜は宮内屋という小店の奥座敷に泊まりました。
※前日夜、七卿の一人沢宣嘉が、生野での挙兵のため三田尻より脱走。

◎元治4年(1864)
■1月19日、久保断三は三文字屋で、氏家鈴助・飯田行蔵と会談しました。

■2月14日夕方、久保断三は三文字屋の山田宇右衛門のところへ行き、赤川友(※赤川友之允道誠か)と会いました。

■3月26日、加藤有隣は因幡藩の使者の松田正人を訪ねて三文字屋へ行きました。

※松田正人(道之)  天保10年(1839)鳥取藩の家老の家臣の家に生まれ、のち松田家の養子となる。明治以後は今の滋賀県の県知事や、東京府知事などを務めた。

◎明治4年(1871)
■1月14日、木戸孝允の宿に三文字屋虎二郎が来ました。長州藩が大変な時に尽力をしてくれたので、木戸は三条実美の短冊一葉を与えました。




参照文献:
「国司信濃親相伝」(国司信濃顕彰会、堀山久夫編、マツノ書店)
「久保松太郎日記」(一坂太郎編 マツノ書店)
「吉田年麻呂史料」(一坂太郎・道迫真吾編 マツノ書店)
「榊陰年譜」(加藤櫻老先生日記刊行会)
「木戸孝允日記」(日本史籍協会編、マツノ書店)


参照文原文
5月21日(国司信濃親相伝)
過日萩通りて凡九ツ時山口町三文字屋江一応着、即刻御屋方政治堂江出候処弾正殿其外列座之席御用召に付、只今着之儀申達候処御前事も有之候間一応下宿見合候様申事故下宿見合候事。

6月26日(久保松太郎日記) 
政府人宿三文字屋を訪、所勤方相尋候処、明倫館同様所勤可仕由。宿円政寺丁白石やえ泊る。

7月5日(白石正一郎日記)
夕山口へ着夜五つ時俄ニ御用申来御用所三文やへ行処中村誠一御読渡左之通 但黄紙御用紙手紙也
 覚
一 御扶持方弐人 
一 米三石二斗
  高にして拾七石
      白石正一郎
・・・・(中略)・・・
御忍扶持被下之三十人通ニ
被召抱御譜代ニ被仰付候事
     但日付なし

7月6日(白石正一郎日記)
今朝月代して御政務座へ出ル三文字や也吉田栄太も昇進ニ付一同ニ出ル夫より飯田八郎左エ門手引致し名札ヲ以廻勤

7月23日(久保松太郎日記)
三文字屋え行、江戸風説・薩摩飛脚咄等を見る。

7月27日(久保松太郎日記)
三文字屋え行。

9月3日(榊陰年譜・加藤有隣)
夫より三文字屋迄赴く。中村誠一君に会して、村田・桂連名の伝書札を渡す。尤旅宿等三文字屋の亭主等奔走して尚又案内あり。あやぎたより萬代屋とて麻田君の立られし跡とて、旅宿を命ぜられる。

9月13日(久保松太郎日記)
夜三字店え行。

9月18日(久保松太郎日記)
午より三字店え行。萩より書状来。杉え之状差出ス。

9月21日(久保松太郎日記)
三字店え行、入江九市・年丸等に逢。奇兵隊三田尻七卿方警衛被仰付候段沙汰相成候由。

9月24日(久保松太郎日記)
杉昨夜着の由、知せ来る。行逢。右一件に付、三字店え行。夜同断。中村九郎・来島又兵衛・久坂義助其外京都より昨夜帰る由、村田次郎三郎同断。

9月25日付け父宛ての書簡『吉田年麻呂史料』
此節は鬧け敷にて六つケ敷とも奉存候へ共、相成事に候はゝ早々山口三文字屋迄罷出、私姓名相尋候様奉願候(後略…)

10月3日(榊陰年譜・加藤有隣)
山口へと急ぎけるが、夜に入りて着、今晩は天神祭也とて、竹兜子は夜台の管絃人群中を囅(車+展)り行き、漸三文字屋にて、山田君に、佐世氏一書を出し、且投宿は宮内屋と云小店の奥座敷に宿りぬ。

文久4年
1月19日(久保松太郎日記)
飛脚を以て船木へ申し越す。
氏家鈴助・飯田行蔵と三字店ニ会談ス。

2月14日(久保松太郎日記)
夕三字店山田宇右衛門所え赤川友と会ス。

3月26日(榊陰年譜・加藤有隣)
 因州家の使者、松田正人君を三文字の客館に問ふ。

明治4年
1月14日(木戸孝允日記)
 白雪満空四山如玉(中略)薄暮帰宿 三文字屋虎二郎来る 去年国難之節彼隠然力を尽す処多し依て余條公の御短冊一葉を与ふ 

HOME | ↑ このページのトップに戻る |