山口市の幕末維新の歴史

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幕末ドラマチック山口

瓦屋跡

場所:山口市山口市湯田温泉3-6-14

登場人物:伊藤博文、井上馨、木戸孝允、杉孫七郎、野村靖、広沢真臣、山田顕義、中野梧一、加藤有隣、中村円太、真木和泉、宮部鼎蔵、土方久元他

時:元治元年(1864)~明治7年(1874)


◎瓦屋について
 瓦屋は江戸時代からつづいた旅館で、幕末に湯田で瓦ぶきの建物は、公館の湯田御茶屋とこの旅館だけだったので、瓦屋といわれるようになり、屋号となりました。
 幕末維新期に多くの志士らが利用したことで昔から有名です。
 明治3年には、瓦屋の長女龍子が山田顕義と結婚しました。
 代々の当主は鹿嶋喜右衛門を名乗っており、昭和初期まで湯田温泉の中心人物の一人として活躍していることが確認できますが、いつ廃業したかは不明です。
 現在は松田屋ホテルの駐車場になっています。

瓦屋跡および山田顕義の石碑
瓦屋跡地全景

瓦屋の庭
奥に庭が

背後は松田屋ホテル
あの石灯籠は瓦屋時代から



 では、瓦屋での出来事を紹介します。
(文末のカッコ内は出典元です。また人物名はよく知られている名で統一しています。)


◎元治元年(1864)
■2月26日
 加藤有隣が有福と湯田へおもむき、瓦屋に泊まった。「建物の下に清流が流れる温泉」と日記に記す。(榊陰年譜)

※加藤有隣(桜老)
 文化8年(1811)水戸で藩士に生まれる。笠間藩加藤家に養子に入り、儒者を勤める。藩の内紛に関与し、隠居して塾を開く。文久2年(1862)長州藩に招かれ、翌年山口に着く。湯田の三条実美の何遠亭を名づけたことで有名。一時期、山口市金古曽の地に塾を開く。明治以後は教部省などに勤めた。明治17年(1884)没。


■4月5日
 伊藤和義が休みの日に瓦屋に泊まった。(伊藤和義日記)

※伊藤和義(甲之助)
土佐藩士。土佐勤王党に参加。藩命で上京し、三条実美の護衛をつとめ、七卿落ちのさいに長州へともに下る。禁門の変で戦死。享年21。


■4月7日
 伊藤和義が瓦屋で呑んだ。(伊藤和義日記)

■4月16日
 土方久元が瓦屋に一泊。粟飯原右衛門兵衛より餞別を預かり夜明けまで飲んだ。(回天実記)

※土方久元
天保4年(1833)土佐藩郷士の家に生まれる。通称楠左衛門。土佐勤王党に参加。藩命で上京し、八・一八政変のあとは三条実美とともに下向し、秘書のような役目を果たす。その間、日記をつけ、「回天実記」にまとめられる。明治以後は新政府に仕え、宮内大臣など歴任。大正7年(1918)没。


■4月26日
 加藤有隣が湯田の瓦屋で杉山・竹下ら数人と宴会。そのあと移動して、三条西季知(七卿落ちの一人)に拝謁し、錦小路頼徳(七卿落ちの一人。下関で4月25日没)が重病であることを知り、瓦屋にもどって泣いた。富永と肘をつかんで大きい声で泣いた。そのあと宮部鼎蔵が京都から着いた。真木和泉と中村円太と、一緒に飲んだ。京都の近況を聞いた。薩摩・越前・備前の藩主がみな京都を去って帰国するとの情報を得た。この夜、有隣宿泊。(榊陰年譜)

※宮部鼎蔵
 文政3年(1820)熊本に生まれる。吉田松陰と親しく交わる。肥後勤皇党に参加。京都で活動するも八・一八政変のあとは長州へ下向。元治元年(1864)6月5日池田屋事件で死す。


※真木和泉
 文化10年(1813)筑後国久留米の水天宮の神職の家に生まれる。尊王攘夷運動に従事し、たびたび久留米藩に幽閉される。三条実美や長州藩などの尽力で赦免後、攘夷親征をすすめるも八・一八政変で挫折。七卿と共に長州へ下向。元治元年7月21日、禁門の変で自刃。


※中村円太
 天保6年(1835)福岡藩士の家に生まれる。筑前勤皇党を結成。藩の方針と合わず、たびたび投獄される。元治元年3月脱獄し、長州へ逃げる。薩長同盟を早くから画策するも、元治2年(1865)同志に暗殺される。



■5月10日
 土方久元が瓦屋へ行き、中村円太、野村靖と面会、酒を飲んだ。(回天実記)

※野村靖
 天保13年(1842)萩の足軽の家に生まれる。兄は入江九一、妹は伊藤博文の最初の妻すみ子。松下村塾に入門し、尊王攘夷運動に従事。明治維新後は新政府に出仕し、内務大臣など歴任。明治42年(1909)没。


■5月15日
 萩藩士国重正文、福岡藩士森安平・番台安之丞・今中作兵衛が、筑前へ出立するというので送別のため、瓦屋で酒宴があり、土方久元も出席。対馬藩の人も数十人来て、盛宴だった。(回天実記)

※国重正文(徳次郎)
 天保11年(1840)生まれる。萩藩士。維新後は新政府に仕える。号半山。


※森安平
 文政11年(1828)生まれ。福岡藩士。勤王派。慶応元年(1865)勤皇派が弾圧された乙丑の獄で10月26日切腹。


※今中作兵衛
 天保8年(1837)生まれ。福岡藩士。勤王派。三条実美らの太宰府遷座に尽力。乙丑の獄で10月23日処刑される。


■5月17日
 土方久元が広沢真臣と瓦屋に行き、夜遅くに帰った。(回天実記)

※広沢真臣
 天保4年(1834)萩藩士に生まれる。藩のエリートコースを昇段し、藩内訌戦以後は要職に就く。討幕など維新前後に最も活躍し、明治2年木戸孝允・大久保利通と同じ永世禄1800石を賜る。明治4年(1871)暗殺される。


■6月9日 
 土方久元が瓦屋へ行き、公卿の命令で下関へ出張する粟飯原右衛門兵衛に別れの杯を交わした。※この日、池田屋事件についての報が届く。(回天実記)

■6月14日
 この日、山口は祇園祭でにぎわっていた。
 上京を控えて南部甕男は、川原亭(瓦屋か)で、同じ土佐の土方(久元)、島村(左伝次)、上杉、山本(忠亮)らと酒を酌んだ。このとき野村靖、栗飯原右衛門にも会った。対馬藩諸士もみないて、ついに酔歌謡狂舞乱倒、五更に旅宿に帰った。(七生日録)

※南部甕男
 弘化2年(1845)土佐藩郷士に生まれる。父は武市瑞山、谷干城を教えた学者。土佐勤王党。脱藩して上洛。八・一八政変で三条実美について長州へ下向。明治以後は司法省で活躍し、大審院長までのぼりつめる。大正12年(1923)没。


■6月15日
 久保断三が瓦屋で、児玉勘七郎・阿曽沼外次郎・布施小次郎・世良久之進等と会った。(久保松太郎日記)

※久保断三(松太郎)
 天保3年(1832)萩の藩士に生まれる。父は松下村塾で教えており(伊藤博文や吉田年麻呂が学ぶ)、有名な吉田松陰のはその後を継いだもの。船木代官、上関代官などを経て、いまの徳島県や三重県の県知事役を務めた。明治9年退官。明治11年(1878)没。


■7月6日
 土方久元が暮頃より野村靖と瓦屋で会った。(回天実記)

■7月10日
 土方久元が、先日英国より帰った井上馨、伊藤博文に瓦屋で面会した。
 土方は日記に、『ずいぶん多くの奇聞があった。従来ただ夷狄を軽蔑していたが、外国共軍備の充実、文物の善美侮れないとのこと。発明するところ少なからず。』(回天実記)

■この頃
 井上馨に、山田宇右衛門、野村靖、永岡与右衛門らが外国の事情が聞きたいというので、瓦屋で会した。
 そのとき筑前の神代直人(※神代は長州人。記憶違い)が二階の井上らの席にやってきて、
「今階下で聴いたらここに犬羊が二匹居るということであったが貴様達であるか」
 井上が返事をしなかったら、
「貴様達は大和魂というものがあるが知っているか」
「ハーァ、大和魂というものは聴いたようにもあるが喰われるものか飲まれるものか」
「そうだろう、知るまい、大和魂というものはこういうものである、見せてやろう」
 神代はいきなり太刀を引き抜いて井上の咽喉に突きつけた。
 井上は、
「なに、それが大和魂か、おれは貴様より長いのを持っている」
といって、すぐさま傍にあった刀を取り、
「なんだ、筑前におってその主に忠を竭(つく)すことができんでこの防長に漂泊いて来て、この国を教唆して国の害をなすやつじゃ、人の国に来て教唆でもする奴なれば刀のほかには大和魂はあるまい、おれはいまだに刀に大和魂をあずけた覚えは更にない、ここではいかぬ、表に出ろ、おれが斬られるか、貴様を斬るか、さあ来い」
 井上が立ち上がって果し合いとなるところを野村靖がうしろから抱きとめたので、血を見ずに終わった。(世外侯事歴維新財政談 附・元勲談)

※山田宇右衛門
 文化10年(1813)に生まれる。萩藩士。代官職を歴任。藩内訌戦以後は藩の中枢で主導的立場にたち、四境戦争を乗り切った。慶応3年(1867)没。


■7月6日から13日の間
 伊藤博文の回顧談。
『英国から帰国してすぐのときは万代家の十朋亭に滞在していたが、そのうち湯田温泉の瓦屋へ宿を移した。
 そのときは益田親施・福原越後・国司信濃が京都へ出ていて、そのあと三条実美ら七卿(このときはすでに六卿)と毛利元徳が出ていくことになっており、それの先発に野村靖がいくというような話で彼らも頑固なことばかり言って話にならなかった。
 先発に行くという仲間で、多くは薩州人についていた筑前の齋藤という者がいる。これががらがらやってきた。そのときには野村靖だの土佐の戸所司馬太郎だのが来ていた。そのほか浪人者が一人いて、そういうのと話していた。  そこへ石川精之助(※中岡慎太郎の変名。ただし記憶違い)であったが、酒に酔ってきて、
「この家に異人が二疋泊っているというが、いまだ泊っているか」
「いえ、手前には異人は泊っておいでになりませぬ。井上さんと伊藤さんがおります」
「それだ」
というようなわけで、吾輩らがいる座敷へ上がってきて、突然短刀を抜いて吾輩の胸へ突きつけて、
「君らは大和魂を知っているか」
というので、癪に障ったから、床の間にあった刀を取りにかかった。そうすると脇から抱きとめられた。 戸所というやつは随分勇気な奴だが、もとは我々の勤王論の同志であって、
「そういう乱暴なことをするのはいかん」
という。
 それからだんだん井上がやかましく論じつけたところが、とうとうそいつは弱りこんでしまって、抜いた短刀もおさまりがつかなくなった。
「着物を取り換えてくれ」
というようなことで井上の着ておった浴衣か何かを着て帰った。とうとう仕舞いに閉口してお世辞を言いだしたのだ。 (伊藤井上二元老直話維新風雲録)

■7月18日
 久保断三が、夕方湯田の瓦屋へ行った。(久保松太郎日記)

■7月25日頃
 7月25日、禁門の変の敗報が山口藩庁に達した。
 井上馨と杉孫七郎に、馬関に駐屯する諸隊へ外国艦隊との和議の打ち合わせをするために出張の命が出た。
 井上馨が、湯田の瓦屋に立ち寄り、吉富簡一を招いた。
「京都敗報の飛脚、今日四時頃藩庁に達し、そのため藩論一変し、我らは呼び出され馬関に至り、諸隊のおもだった者に和議の打ち合わせをなすべしとの命を受けた。もし議論が合わないときは我らはいかなる災害を被るやも知れない。本件に関しては、拙者は帰朝後伊藤(博文)とともに極力攘夷が不利であることを献策したが容れられないだけでなく、かえって大いに疎んぜられ、防長二州が焦土となっても攘夷を断行すべしとの議論になったのに、どうしたことか一たび京都の敗報に接してのひらをひるがえすように前議をひるがえしたことは真に憤慨に堪えず。これは結局藩庁当局が微力であるからだ。もし麻田翁(周布政之助)が政府に在ったら、このような失態にはなるまい。今日はじつに国家存亡の秋である。麻田翁も自ら閉門に安んじている時ではない。ただ今より藩庁に出仕し、万事を指揮してほしい。この気持ちを足下より麻田翁に伝え、何分の返答を待つ。」
 吉富は自邸の離れ屋敷に住んでいる麻田公輔に告げた。麻田は、
「京師の敗軍は驚くに足らず。公輔はあらかじめこのようなことになるのではないかとおもったがゆえに、諸隊の上京は危険だと、力をきわめて拒絶したが、来嶋又兵衛その他が頑として公輔の意を理解してくれなかった。かえって嘲っていうには『公輔は愚に返った』と。事すでに今日に至ってはこれをどうすることもできない。このような国難を醸し出したのは、上京した者たちが血気の勇に乗じた罪である。とはいえこの敗報に接したためにわかに攘夷の大方針を一変し、和議を講じるなどとは、さきに朝廷へ建白して勅許をうけここに至ったことを歴史上に伝えるとき、毛利家の忠節信義は何をもって天下に表せられるだろうか。たとえ藩庁の命令といえども井上杉ともあろうものが考えるところがないようではいけない。公輔は重罰を受けている身分であるから、いかに国家の大変といえども、君命を待たずに藩庁に出仕する面目があろうか。両人は毛利家中士の身分であるから今日死をもって諌めればいい。公輔の言であると両人に伝えて言え。すぐに山口に帰り藩庁当局者に対し、極論し割腹して君上を諌め奉ずるべし。徳輔(杉孫七郎)は我が甥。もしこのことができないというならばすぐに叔姪の情誼を断つ。」
 吉富は瓦屋にもどって、井上と杉に麻田の言葉を伝えた。
 杉いわく、
「たぶんこのようなことであろうと予想していた。」
 井上いわく、
「さすがは麻田翁である。翁の意気がこのようなものであるから我は翁が藩庁に座することを望むのである。我らはすでにできるだけの手段を尽し、それでもこのようなことに至ったのであるから、ただ各自君命にしたがい職務に尽すほかの手段はない。すぐに馬関におもむき、いつか再会しよう。」(吉富簡一履歴)
 (注)井上と杉の馬関行は結局中止となった。

※杉孫七郎
 天保6年(1835)山口の藩士植木家に生まれる。母は周布政之助の姉。萩の杉家に養子に入る。文久元年遣欧使節に参加。藩の要職を務め、明治新政府ではおもに宮内省で活躍。岩倉具視・三条実美・伊藤博文の国葬の実行委員長も務める。書に秀で、長州三筆の一人。大正9年(1920)没。


■8月23日
 土方久元が八つ時より山口政事堂に行き、大津唯雪に面会、暮頃より瓦屋で小酌。(回天実記)

※大津唯雪
 文政8年(1825)萩藩士に生まれる。村田清風の次男。旧姓村田次郎三郎。藩役人として代官職など務める。明治以後は毛利家編輯掛。明治20年(1887)没。


■8月28日
 土方久元のもとへ野村靖が来訪、それから瓦屋で小酌し、一泊。(回天実記)

■8月29日
 引き続き、土方久元が早朝より瓦屋で置酒。閑談して時が移る。七つ半時頃帰宿。(回天実記)

■9月7日
 土方久元が朝より瓦屋で奇兵隊の面々と小酌、九つ時引取る。(回天実記)

■9月15日
 金子文輔が、氷上(山真光院)より建白書の草稿を携え、野村靖の意見をもとめるために湯田瓦屋へいくも不在だった。(馬関攘夷以来従軍筆記)

※金子文輔
 萩藩士。先鋒隊で出陣するも腰抜けぞろいのため発足した奇兵隊に入る。馬関砲撃事件から戊辰戦争までの日記を残す。


■9月24日
 土方久元が暮頃より瓦屋で、このたび帰国する対馬藩士と別杯を酌み、深更に至り帰宿。(回天実記)

■9月25日
 その日、児玉愛ニ郎が財満新三郎の旅宿を訪ねた。
 財満は鶏をささげて帰ってきた。
「鶏を買うたが、これを食おうじゃないか」
「それはよからう」
 財満に、中井栄次郎、周布藤吾、有地品之允、山田春蔵、それに児玉と、湯田へ行って鶏肉の御馳走になった。 児玉の他はみな剣術師範馬来の門人であった。児玉だけが内藤門下で、仲間に入っていた。
 湯田の瓦屋で湯に入って鶏を食うて、それから腹がふくれたから、「今から運動に出ようではないか」といって出た。
 財満は残り、有地と山田が先に出た。中井と周布は後から出て、児玉はずっと遅れて出た。
 円龍寺の少し手前まで行ったところ、中井が駆けてやってきた。
「今あっちへ行ったのは井上聞多じゃないか」
「そうだったかも知れぬ」
 児玉は、今すれちがいに茶筅髷の武士が仲間を連れていったのをみたから、そう答えた。
「彼をやってしまわなければいかぬ。おれ一人でやる」
と、中井は言い捨て、どんどん行ってしまった。
 児玉は躊躇していたが、臆病を起して逃げたと言はれてもならんからと思って、あとから駆けて行った。
 このあと井上馨が襲われた。袖解橋の難である。 (井上馨侯元治の難 児玉愛次郎翁談話速記)
→「幕末の舞台/井上馨遭難の地」参照

※児玉愛二郎
 天保11年(1840)生まれ。萩藩士。干城隊小隊長。明治以後は宮内省図書頭。昭和5年(1930)没。


※財満新三郎
 天保4年(1833)生まれ。萩藩士。先鋒隊大伍長。慶応元年(1865)1月17日、内訌戦で萩軍として絵堂で戦死。


※中井栄次郎
 天保14年(1843)生まれ。萩藩士椋梨藤太次男。先鋒隊。慶応元年(1865)6月13日、明木権現原暗殺事件犯人の一人として萩野山獄で刑死。


※周布藤吾
 萩藩士。先鋒隊の年長者。四境戦争石州口で戦う。のち病死。


※有地品之允
 天保14年(1843)生まれ。萩藩士。干城隊。のち弟2人とともに海軍中将。


※山田春蔵
 弘化3年(1846)生まれ。萩藩士。明治以後は福島・静岡・埼玉・広島の各知事歴任。宮中顧問官。大正11年(1921)没。


■10月12日
 土方久元が、九つ時より瓦屋で土佐藩一同と会談、小酌。(回天実記)

■10月17日
 土方久元が、暮方より瓦屋で、対馬藩士渡辺孫左衛門等と小酌。(回天実記)


◎慶応2年(1866)
■1月13日
 加藤有隣が河原楼(瓦屋か)で二見翁より馳走される。対馬藩の小田久米之助や、坂上・境井ならびに長入僧が陪席した。(榊陰年譜)

■3月14日
 加藤有隣が、湯田の河原楼(瓦屋)で飯田隼人と。曾尚義場の旧交。小野次郎・山田市(之允=顕義)・野村利等と大宴。(榊陰年譜)


◎慶応3年(1867)
■3月5日
 久保断三、湯田瓦屋へ行く、山田市(之允=顕義)・木戸(孝允)・林入湯、小酌。(久保松太郎日記)

※山田顕義
 天保15年(1844)生まれ。萩藩士。松下村塾生。幕末の長州藩の全ての戦争に参加。明治3年瓦屋の長女龍子と結婚。明治以後は陸軍から司法に移り、近代日本の法典を整備した。日本大学・国学院大学創設者。明治25年(1892)没。


■4月17日
 加藤有隣が再び河原楼(瓦屋か)にて貞永氏(三田尻の豪商貞永庄右衛門か貞永隼太)を来訪するに、もはや角児を伴って山口に行ったったという。(榊陰年譜)

■6月27日
 田中光顕が、瓦屋を訪れ、山田顕義を訪ねた。山田は田中の為に置酒をしていた。そこへ木戸孝允が来て、会った。そして満酌快飲した。(伯爵田中青山)

※田中光顕
 天保14年(1843)生まれ。土佐藩陪臣に生まれる。土佐勤王党に参加。元治元年脱藩し、長州を頼る。四境戦争では丙寅丸で戦う。明治以後は新政府で要職に就く。政界引退後は維新志士の顕彰に努めた。昭和14年(1939)没。



◎明治元年(1868)
■5月7日
 木戸孝允が出立のため、山田七兵衛・松原音三・杉孫七郎・野村素介そのほか山口三田尻尚明倫官小吏・阿部一家・万代屋等と、瓦屋で別れの宴。夜八字過にわかれた。(木戸孝允日記)

※山田七兵衛
 山田顕義の父顕行のこと。元長州藩海軍頭取。文政6年(1823)~明治2年(1869)。


※松原音三
 旧名山県九右衛門。藩政府の中枢で活躍。明治以後は新政府に出仕。



※野村素介
 天保13年(1842)現在の山口市大内長野の藩士有地行任の次男として生まれ、萩の野村家の養子となる。明治以後は新政府に出仕、要職に就く。書家としても有名で長州三筆の一人。昭和2年(1927)没。


※阿部一家
 安部家のこと。山口で本陣を務めた豪商。木戸孝允と親しい。


※万代屋
 山口の商家。離れの十朋亭には伊藤博文をはじめ、多くの藩士が滞在した。



◎明治3年(1870)
■1月12日(※この日より16日まで大久保利通・黒田清隆来山)
木戸孝允のところに寺内(暢三)来訪。大久保(利通)黒田(清隆)が山口に入り、両氏が切に面会のことを求めているというので、木戸は病を勉め、寺内と湯田茶屋に至った。両氏に相談して夜半奥平も同伴した。木戸は、瓦屋に至り一泊した。(木戸孝允日記)

■1月13日
 木戸孝允は、大久保(利通)と黒田(清隆)を訪ねた。十二時過ぎ、帰宅。杉(孫七郎)が昨夜より来泊。久保(断三)・瀧ら諸子が来訪。夜に入り、久保・瀧らと大久保・黒田を訪ねた。しばらく相談し、久保らと瓦屋に泊った。
 朝、木戸は瓦屋で、三条実美公よりの使者・森寺国之助(常徳か)に面会した。(木戸孝允日記)(久保松太郎日記)

■1月20日
 木戸孝允は、瓦屋で、川鰭卿(河鰭実文)ならびに森寺に逢った。(木戸孝允日記)

※河鰭実文(かわばた さねふみ)
 弘化2年(1845)三条実美の弟に生まれ、河鰭家に養子に。明治新政府に出仕し、のち貴族院議員になる。明治43年(1910)没。


■4月20日
 木戸孝允がこの日、薩摩藩の書生(以下二行空)八名を湯田瓦屋に招いた。(木戸孝允日記)

■5月16日
 木戸孝允は、広沢・竹田・青木・井上を訪ね、麻田翁(周布政之助)の墓に詣り、瓦屋に至り、七時帰寓。(木戸孝允日記)

■12月23日
 木戸孝允が六時頃、湯田の瓦屋に至り一泊した。(木戸孝允日記)

■12月24日
 十二時前、木戸孝允は瓦屋を出た。・・・六時頃、瓦屋に帰って泊まった。(木戸孝允日記)


◎明治4年(1871)
■4月3日
 木戸孝允が瓦屋に行き、日下一郎に会って話した。山田そのほかにも会った。(木戸孝允日記)

■4月22日
 久保断三が瓦屋で赤間関から来た三好軍太郎(重臣)と逢った。御堀(耕助か)も来て、危いというので相談をした。(久保松太郎日記)

※三好重臣
 天保11年(1840)萩藩士に生まれる。奇兵隊に入り、参謀職を務める。明治以後は陸軍で活躍し、中将。明治33年(1900)没。


※御堀耕助
 天保12年(1841)萩藩士に生まれる。御楯隊を結成し、藩内訌戦や四境戦争を戦う。明治2年山県有朋・西郷従道と欧州視察に向かうが病気の為いったん帰国。渡仏するも帰国してから病状悪化。明治4年(1871)没。


■5月7日
 湯田に至り井上世外(馨)を訪ねたが不在。瓦屋にて午飯。野村靖之助・河野亀之進等と相談しそれより忠正公(毛利敬親)の御廟へ参詣した。(木戸孝允日記)


◎明治5年(1872)
■1月16日
 初代山口県令の中野梧一が、夕方瓦屋に来て、久保断三(権参事)と会った。瓦屋の次女京子は碁を好み、これから中野の碁友になる。※京子の姉龍子は山田顕義の妻。(中野梧一日記)

※中野梧一
 天保13年(1842)幕臣の子に生まれる。勘定所に勤務し、戊辰戦争では函館戦争に参加。明治3年釈放され、明治4年大蔵省に入り、井上馨の推薦で11月15日に山口県の初代県知事にあたる役職に抜擢された。明治8年、実業界に転身。関西で活躍していたが明治16年(1883)自殺。現在に至るまで動機は不明。


■2月11日
 中野梧一が瓦屋に行き、囲碁または書画に遊んだ。瓦屋の娘京子と囲碁をかこみ、負けた。(中野梧一日記)

■4月26日
 中野梧一が、県職員らと瓦屋で小酌。瓦屋の娘と囲碁。(中野梧一日記)

■6月1日
 初代山口県令の中野梧一が、天野順太(山口県新聞創刊者)・正木基介(県職員)・勝間田稔(県職員)を連れて、瓦屋に行き、小酌。また碁を囲む。(中野梧一日記)

※正木基介
 萩藩士正木家の長男。明治5年から山口県に勤め、明治17年から26年まで吉敷郡長を勤めた。弟に、東京職工学校初代校長(現在の東京工業大学)やハワイ総領事を勤めた正木退蔵がいる。


※勝間田稔
 天保13年(1843)藩士勝間田湾翁の子として、現在の山口市大内御堀に生まれる。戊辰戦争に従軍後、明治4年から3年間、山口県に勤めた。その後、内務省に入り、愛知県・宮城県・新潟県の各知事を歴任。明治39年(1906)没。



◎明治7年(1874)
■7月26日
 木戸孝允が、野村(素介)・正木(基介か)・内藤宿平右衛門と六時より湯田瓦屋に至り十一時帰寓。(木戸孝允日記)

■10月19日
 木戸孝允が、世外(井上馨)阿部平(安部家主人)と湯田瓦屋に至り一泊した。(木戸孝允日記)

■10月24日
 木戸孝允が十二時より湯田瓦屋に至り井上(馨か)・梶山等へ面会(木戸孝允日記)






参照文献:
「伊藤井上二元老直話 維新風雲録」(マツノ書店)
「伊藤和義日記」」(維新日乗纂輯第四巻 日本史籍協会)
「井上馨侯元治の難 児玉愛次郎翁談話速記」(山口県文書館所蔵)
「榊陰年譜」(加藤櫻老先生日記刊行会)
「回天実記」(人物往来社 )
「木戸孝允日記」(日本史籍協会編、マツノ書店)
「久保松太郎日記」(一坂太郎編 マツノ書店)
「七生日録」(維新日乗纂輯第一巻 日本史籍協会)
「初代山口県令中野梧一日記」(田村貞雄校注 マツノ書店)
「世外侯事歴維新財政談 附・元勲談」(沢田章編 マツノ書店)
「馬関攘夷以来従軍筆記」(山口県文書館所蔵)
「吉富簡一履歴」(山口県文書館所蔵)


◎山口市歴史民俗資料館所蔵史料より昔の写真を紹介します。


「山口各所風景」より 瓦屋。道の街灯が提灯(明治末頃)


「湯田温泉街の旅館」より 上写真の反対側から見た瓦屋(大正11年頃)


「山口市内風景」より 瓦屋。道に街灯ができました(昭和初期)


「山口と湯田」広告ページより 瓦屋の中庭 石灯籠が今もあります(昭和3年)

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