山口市の幕末維新の歴史

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幕末ドラマチック山口

松田屋

場所:山口市山口市湯田温泉3-6-7

登場人物:兼重慎一、久保断三、玉木文之進、長松幹、三好重臣、吉富簡一、加藤有隣、土方久元、伊藤和義、清岡公張、黒岩直方、南部甕男、中野梧一

時:文久3年(1863)~明治7年(1874)


◎松田屋について
 松田屋は1675年からつづく、湯田温泉でもっとも古くからある旅館ホテルです。
 幕末の1860年に設営された浴場がいまもあります。
 また、三条実美から頂戴した小松が庭に大きく育っています。
(以上、松田屋公式HPより)

門脇の板壁等は昔からの意匠
現在の松田屋ホテルの門

三条実美の手植え松と歌碑
松田屋の庭

実美の歌碑
手植え松全景


 
 
 管見の限り文献から松田屋での出来事を紹介します。
 加藤有隣の日記をみると、「旭翠亭こと松田屋」と書かれてありますので、他の文献で「旭翠亭」と出てきたらそれも松田屋とみなして併せて紹介します。
(文末のカッコ内は出典元です。また人物名はよく知られている名で統一しています。)
 


◎文久3年(1863)

■7月16日
 久保断三が役所の人と湯田へ。松田屋が宿。(久保松太郎日記)

※久保断三(松太郎・清太郎)
 天保3年(1832)萩の藩士に生まれる。船木代官、上関代官などを経て、いまの徳島県や三重県の県知事役を務めた。明治9年退官。明治11年(1878)没。


■12月12日
 土佐藩士伊藤和義と黒岩(直方)と南部(甕男)が旅装を収め、夜に湯田の宿旭翠亭へ赴く。(伊藤和義日記)

※伊藤和義(甲之助)
土佐藩士。土佐勤王党に参加。藩命で上京し、三条実美の護衛をつとめ、七卿落ちのさいに長州へともに下る。元治元年(1864)7月19日禁門の変で戦死。享年21。


※黒岩直方
 天保5年(1834)土佐に生まれる。土佐勤王党。八・一八政変で三条実美について長州へ下向。明治以後は司法界で活躍。明治33年(1900)没。


※南部甕男
 弘化2年(1845)土佐藩郷士に生まれる。父は武市半平太、谷干城を教えた学者。土佐勤王党。脱藩して上洛。八・一八政変で三条実美について長州へ下向。明治以後は司法省で活躍し、大審院長までのぼりつめる。男爵。大正12年(1923)没。


■12月13日
 ある事情のため、伊藤和義の松田屋での滞留が延びた。(伊藤和義日記)


◎元治元年(1864)
■1月13日
 伊藤和義が旭翠亭に滞在。(伊藤和義日記)

■2月6日
 加藤有隣が温泉で一浴一酌、旭翠楼の松田屋で。「柳沢公同席、三千石也」。(榊陰年譜)

※加藤有隣(桜老)
 文化8年(1811)水戸で藩士に生まれる。笠間藩加藤家に養子に入り、儒者を勤める。藩の内紛に関与し、隠居して塾を開く。文久2年(1862)長州藩に招かれ、翌年山口に着。湯田の三条実美の何遠亭を名づけたことで有名。一時期、山口市金古曽の地に塾を開く。明治以後は教部省などに勤めた。明治17年(1884)没。


■2月9日
 伊藤和義が夕方、竹下幸吉を訪ねて旭翠楼に行き、氷上(山真光院。当時七卿落ちのうち5人の公卿が滞在)に帰ると告げたが、幸吉と堅田および瀧田などが酌をしていて、強く一杯を勧められたので断れず、清岡(公張)、利岡(玄兵衛)と席に至った。夜、月明かりで道がよく見える中、気分よく帰った。(伊藤和義日記)

※竹下幸吉
 おそらく、堅田家(今の周南市湯野の領主)家臣で、一時期松下村塾に学んだ者か。


※清岡公張
 天保12年(1841)土佐藩郷士に生まれる。通称半四郎。藩命で、伊藤和義らとともに三条実美の衛士になり、七卿落ち以後も行動を共にする。禁門の変にも参加。明治以後は新政府に出仕する。明治34年(1901)没。


■4月25日
 加藤有隣が午後、片田大臣と旭翠楼で会って飲んだ。「酒肴は山のごとし」。
 そして有隣が漢詩を詠んだ。
   跋旭翠楼上扇面額後
 遠遊今我欲何之
 壮士直将撫四夷
 負去朝陽過西海
 関東自有一男児。(榊陰年譜)

■5月4日
 加藤有隣が松田屋で一泊。吉富(簡一)・富永・岡・杉山耕太郎陪宴。(榊陰年譜)

※吉富簡一
 天保9年(1838)、矢原の豪農に生まれる。萩内訌戦では奇兵隊諸隊に資金援助を行うとともに鴻城隊を組織する。明治以後は、地元をまとめて中央での長州閥の活躍を支える。初代山口県会議長。大正3年(1914)没。


■5月5日
 加藤有隣が午後より松田屋で一浴。(榊陰年譜)

■5月14日
 旭翠楼にいる加藤有隣のもとへ杉山が来訪。(榊陰年譜)

■6月4日
 この夜、調練につき、毛利筑前(右田毛利氏)来山。加藤有隣は旭翠亭で六十余人と休泊。「蚊帳なし、夜具なし、陣中の如し。」(榊陰年譜)

■6月5日
加藤有隣、吉富(簡一)と同行し、旭翠亭で小酌、大いに酔う。(榊陰年譜)

■6月26日
加藤有隣が出立のため松田旭翠亭で別れの宴会。吉富・杉山・岡・永松同宴。(榊陰年譜)

■8月6日
   加藤有隣が旭翠亭で、入浴し酒を飲んだ。土方楠左(久元)が来て陪宴、夜半に至って宴は終わった。(榊陰年譜)

※土方久元
天保4年(1833)土佐藩郷士の家に生まれる。土佐勤王党に参加。藩命で上京し、八・一八政変のあとは三条実美とともに下向し、秘書のような役目を果たす。明治以後は新政府に仕え、宮内大臣など歴任。大正7年(1918)没。


■10月5日
 金子文輔が松田屋で呑んでいると、そこの主人が盆栽と短冊一葉を持ってきてこう言った。
「盆栽の松は相生にして、かつて五卿が湯田滞在中の正月七日朝、赤妻山錦小路頼徳卿の墳墓に参詣した帰途、三条実美公がこの松を御持帰りになり、賜った。」
 短冊の歌に云わく、『時し在らは世に相生の姫小松君にひかるることもありなん』。
 三好重臣が試しに盆栽の松を庭上に移して言った。
「我勤王士が正気挽回することができたらこの松自ら繁茂すべし。また回復ができることができなかったらこの松は枯株すべし」
 遂に松を庭上に移した。
 藤村英熊が、松に銘々した。いわく「時しの松」。三条公の歌の冒頭五文字を採った。(馬関攘夷以来従軍筆記)
 補足:このときの短冊は明治19年元老院議官長の長松幹を介し三条実美の所望により献納された。(山口と湯田)

※金子文輔
 萩藩士。先鋒隊で出陣するも腰抜けぞろいのため発足した奇兵隊に入る。馬関砲撃事件から戊辰戦争までの日記を残す。


※三好重臣
 天保11年(1840)藩士に生まれる。奇兵隊入隊後、要職を務める。明治以後は陸軍に入り、中将。明治33年(1900)没。


※藤村英熊
 長州藩士。足軽。久坂玄瑞らとともに京都から下関に入り、光明寺党結成に参加。奇兵隊の幹部となる。のち太郎稲彦と改名。藩内訌戦の開戦となった絵堂の戦いで戦死。享年28。


◎慶応元年(1865)
■3月6日
 久保断三が湯田に着いた。宿は松田屋。山田・玉木(文之進か)・兼譲(兼重譲蔵こと慎一)などと合宿。(久保松太郎日記)

※玉木文之進
 文化7年(1810)萩に生まれる。吉田松陰の叔父。藩内の各地の代官職を歴任する。明治9年(1876)萩の乱に養子や門弟が参加した責任を取り、自害。


※兼重慎一
 文化14年(1817)萩藩士。通称譲蔵。藩政府内で活躍。軍制改革などを推進。明治以後、毛利家史編修にたずさわった。女流画家兼重暗香の父。明治30年(1897)没。


■8月7日
 加藤有隣が、旭翠亭に一泊。杉山等と会飲して寝た。(榊陰年譜)

■9月3日
 加藤有隣が再び旭翠亭で長松(幹か)と会飲。(榊陰年譜)

※長松幹
 天保5年(1834)山口の医者の家に生まれる。のち藩士となり、主に編修の仕事に従事。明治以後も、官撰史書の編纂に従事。明治36年(1903)没。


◎慶応2年(1866)
■1月19日
 加藤有隣が、午後より坂上・安部平二(安部家主人)と湯田の松田屋へ行く。(榊陰年譜)

■2月29日
 この夜、湯田の旭翠亭で、入江弥源太在坂中脱囚の忘日当祝ということで、岡村・坂上両先生(山口明倫館の先生)と加藤有隣が馳走。徳山藩河上徹也が同飲。鯛茶碗蒸等。(榊陰年譜)

■5月22日
 松田屋において加藤有隣が山縣某および文学書生一同、坂上・中村両先生と会飲。多田・島田・桂らも瓦屋楼で会飲。(榊陰年譜)

■6月18日
 炎暑。加藤有隣が夕方、旭翠亭で鰻飯と小酌。(榊陰年譜)

■7月1日
 朝、旭翠亭で加藤有隣が、坂上・磯村・佐久間・坪井信道等と会飲。佐久間から水戸藩の国情等をくわしく聞いた有隣は大嘆息した。仙台の話もあった。有隣はすこぶる愉快にすごし、この宴はよい肴で満足した。(榊陰年譜)

※坪井信道(信友)
 天保3年(1832)生まれ。坪井信道の長男。洪庵の適塾に入門、遊蕩の末放逐。長州藩に任官。後に信道を襲名。藩外班医員、好生堂教諭兼病院総管をつとめた。慶応3年(1866年)広島で病没。


■7月13日
 加藤有隣が、旭翠亭で焼酎閑酌。(榊陰年譜)

■9月28日
 加藤有隣が旭翠亭で小酌。(榊陰年譜)


◎慶応3年(1867)
■7月14日
 久保断三は、昼すぎ、小郡川口にて潮待していた。暮に東風が吹いて、川下着、夜半湯田着、松田屋へ宿じた。(久保松太郎日記)


◎明治7年(1874)
■2月1日
 初代山口県令の中野梧一が松田屋で、吉富簡一、竹田佑伯(後河原の医師、中野の碁友)、片山喜八(山口の酒造家)らと会合した。時田光介(県の大属)も来て碁をした。話は昔のことにおよんだ。「此夕満月、四山蒼翠如満」。(中野梧一日記)

※中野梧一  天保13年(1842)幕臣の子に生まれる。勘定所に勤務し、戊辰戦争では函館戦争に参加。明治3年釈放され、明治4年大蔵省に入り、井上馨の推薦で11月15日に山口県の初代県知事にあたる役職に抜擢された。明治8年、実業界に転身。関西で活躍していたが明治16年(1883)自殺。現在に至るまで動機は不明。



参照文献:
「伊藤和義日記」(維新日乗纂輯第四巻 日本史籍協会)
「久保松太郎日記」(一坂太郎編 マツノ書店)
「榊陰年譜」(加藤櫻老先生日記刊行会)
「初代山口県令中野梧一日記」(マツノ書店)
「馬関攘夷以来従軍筆記」(山口県文書館所蔵)
「山口と湯田」(山口市歴史民俗資料館所蔵)


◎山口市歴史民俗資料館所蔵史料より昔の写真を紹介します。


「松田屋旅館」より 現在の県道バス停あたりからみた眺めか(大正初期)


「湯田温泉街の旅館」より 右端の建物が松田屋(大正11年頃)


「松田屋旅館絵葉書」より 庭園(昭和初期)


「エハガキ巡礼おらが国国土及湯田の温泉」より 正門(昭和初期)


「絵はがき 湯田旅館第一松田屋」より 正門 (昭和初期)


「絵はがき 湯田旅館第一松田屋」より 玄関 (昭和初期)


「絵はがき 湯田旅館第一松田屋」より 庭園 (昭和初期)


「絵はがき 湯田旅館第一松田屋」より 庭園 (昭和初期)


「絵はがき 湯田旅館第一松田屋」より 庭園 (昭和初期)


「絵はがき 湯田旅館第一松田屋」より 庭園 (昭和初期)


「絵はがき 湯田旅館第一松田屋」より 庭園 (昭和初期)


「絵はがき 湯田旅館第一松田屋」より 庭園 背景の山は障子ヶ岳 (昭和初期)

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