山口市の幕末維新の歴史

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幕末の舞台

坂本龍馬も滞在した三輪惣兵衛宅

場所:山口市中央五丁目の市道・道祖町旭通り一丁目線(旧石州街道)沿い

登場人物:坂本龍馬、加藤有隣、大久保利通、西郷従道

時:慶応2年(1866)


 幕末、山口の田町(現在の山口市中央5丁目あたり)に、三輪惣兵衛宅がありました。他藩から来た人を泊めていたということで、記録にあらわれます。三輪惣兵衛自身は、醤油醸造と質商を営んでいました。
 三輪家は藩主などが立ち寄った格式ある家でした。
 また、明治4年5月12日、ここに滞在していた薩摩藩士大久保利通・西郷従道を、木戸孝允が逢いに訪れたことが、木戸孝允日記に記されています。
 幕末、他藩の使者を引き受けて泊めたときは、夜でもいつでも、藩政府の要人が取り持つ役目をしていました。それで広沢真臣ら酒飲み連中がよく来ていたそうです。
 ある日、禿頭の他藩の使者を接待しているとき。近眼の藩士・国重正文が誤って、すった山芋を入れた鉢と、杯洗(はいせん)を間違え、盃を鉢につっこんで使者につきだしたので、使者の服に山芋がかかったことがありました。幸いにも使者は怒りもしないで、「これはなんでございましょう、坊主ぼっくり山の芋というのでございましょう」といって、笑いながら禿頭をさすりました。そういう逸話も残っています。
  (防長史談会雑誌掲載「毛利敬親卿事蹟の概要(第十九号の続き) 村田峯次郎講演」より)

石州街道沿いの三輪宅跡近辺


 さて、この三輪家に坂本龍馬が滞在していたという記録が、加藤有隣の日記を翻刻した昭和54年版「榊陰年譜」(笠間稲荷神社)に記載されていることを見つけましたので紹介します。
 
 ※坂本龍馬(さかもと りょうま)
  龍馬は、天保6年(1836)土佐藩に生まれました。
  文久2年(1862)1月萩を訪れて久坂玄瑞に会います。
  同年3月に脱藩。江戸へ出て勝海舟の門人となります。
  それから亡くなるまでの5年間に縦横無尽の活躍をしました。
  慶応3年(1867)11月15日没。

 ※加藤有隣(かとう ゆうりん)
  有隣は、名は熈。通称は有隣。号は桜老です。
  茨城県笠間市では加藤桜老で、山口市では加藤有隣で紹介されています。
  湯田の井上公園にあった三条実美寓を「何遠亭(かえんてい)」と名付けたことでも有名です。
  有隣は、文化8年(1811)水戸藩士の家に生まれました。
  のち、笠間藩の加藤家の養子となりました。
  水戸藩の会沢正志斎、藤田東湖などに学び、儒学者になりました。
  安政3年(1856)隠居所を構え、全国から多くの志士が訪ねてきました。
  高杉晋作もその一人です。
  のちに晋作の推薦で有隣は長州藩に文学教授として迎えられました。
  維新後は、一時期京都の大学で教えたり、教部省に入って活躍しました。
  明治17年(1884)没。


 慶応2年(1866)
 6月25日、坂本龍馬は三輪惣兵衛宅に泊まりました。

 山口市中で滞在の記録が残っているうちの2回目です。
 ※龍馬は、6月14日、ユニオン号(桜島丸、乙丑丸)に乗って下関に到着。
  同船を長州藩に引き渡しました。
  しかし高杉晋作の頼みで、同船で四境戦争小倉口の戦いに参戦。
  その後に山口入りしました。
  長州藩主に拝謁するためとおもわれます。

 加藤有隣は、同日、三輪家の坂本龍馬を訪ねました。
 初体面という事で、挨拶だけして後日面会の約束をとりつけました。

 龍馬を薩摩藩関係者と認識して訪問したようです。

  ※同日の加藤有隣の日記より該当部分抜粋現代語訳。
「薩州の坂本龍馬が三輪惣兵衛の所に泊まっているという事なので、とりあえず面会して礼を言い、前の面談と書状についての御礼、および新兵児謡を鹿児島の神社へ奉納以来、とりわけ薩摩藩による正義の周旋と三条公等への対処を尽されたのを感謝して、茶を飲み辞して去る。なお、委細についてまたの面会を約束する。」

 6月27日 夕方から龍馬をもてなす宴会がありました。
 同日、三輪家に居る龍馬を有隣が訪ね、持論を説明しました。
 龍馬は、海軍局設置・大学創設など優れた考えと褒めました。
 そのあと、有隣は食事の供をしました。
 龍馬の宴会では、有隣が得意の琴を演奏しました。


  ※同日の加藤有隣の日記より該当部分抜粋現代語訳。
「午前、三輪へ坂本龍馬を訪ねる。学制論・侯国小典の学制篇及び奮武腹稿等を示す。(龍馬は)海軍局・大学校、共に優れているとほめる。ただ口先ばかりでなく、兵力を兼ね備えて、幕府の権威を十分にくじいた後に、この事を行ってほしいと言う。私は文章で告げるだけでも良いと言う。過日、賁如濡如永貞吉(※失敗しても長い目で見ればよいの意)、の道理に従って説く、いまだ決まらずとも、実に文武互いに用いるのもまた文章であれば、それもよいだろうと言う。□楼において食事の供をする。・・・ 夕刻より、通知されていた三輪での坂本に対するもてなしに参上し、琴を一曲演奏して帰る。
○坂本論談」

6月28日 三輪家の龍馬を有隣が訪ね、起草した文を見せました。
 龍馬は、手を打って最も優れていると言い、薩摩に帰ったら尽力すると誓いました。


  ※同日の加藤有隣の日記より該当部分抜粋現代語訳。
「この夕方、再び坂本に面会して、学制議並びに侯国小典・学政の篇・奮武腹稿下篇・勧学説・性道教論等を示す。三輪氏の霽海楼にて宴席の供をし、話をする。坂本氏は手を打って、私の議論はもっとも優れていると。その説は、大学を京に建てる〔五大陸中第一の学館〕、海軍制度〔大海軍局を初め世界の海軍大司令部〕、神典の再興〔神社再興等の事並びに勧学説など多岐にわたる〕、尊攘の大事業はこれ以上のものはない。これを天下に貫いて当世に施す〔とりわけ兵力を合わせて三条公を助け、京に帰って共に朝廷をささえる〕。(龍馬は)薩摩藩の力を尽すべく、自分は及ばずながら素早く帰国してぜひ尽力しようと誓う。」

7月1日 龍馬は藩主毛利敬親に拝謁しました。
 夜、三輪家で坂本龍馬への盛大な接待宴席がありました。
 木戸孝允、井上馨、加藤有隣も参加しました。

 この日龍馬は藩主より「羅紗の西洋衣の地」を頂戴したと、実姉に後日報告しています。

  ※同日の加藤有隣の日記より該当部分抜粋現代語訳。
「夕方より三輪邸に行く。この日坂本氏来訪の約束があったが、(龍馬は)木戸氏より御屋形の殿様へ拝謁を仰せ付けられ、夕方また三輪家において仰せ付けられた接待はもっとも盛大なものだった。木戸と井上聞多二人が送り来て持てなし、坂本は、今日はぜひ拝謁の儀について礼をするところ云々と礼を言い、さて以前より論じている事に木戸氏〔木戸氏は人の応接で時間を取られる〕と結論を出した。先生の論の通りで他はないと決したと言う。自分もまた、それは何より安心であると、辞して去る。」

7月2日 龍馬の送別会がありました。
 龍馬が有隣の滞在先の龍泉寺へ迎えに来てくれて、三輪家で泊りがけで話し合いました。


  ※同日の加藤有隣の日記より該当部分抜粋現代語訳。
「松原氏の説は、三条公を奉じて始めより薩摩の勢いで出るというのは非常に手荒い。まず一家老位の兵力をもって堂々と申し開き、その後に三条公が京に戻り、公式に路を開いた後に出てはと言う。これが万全の策であると。自分もまた深く理解して坂本に申し送る。この日まだ面会できず、出発の時に私の家に坂本が立ち寄ろうと言う。・・・この夜、坂本が来訪し、また随行して三輪に行く。送別の宴をしてついにそこへ泊まり、前の議論を決する。」

7月3日 有隣が旅立つ龍馬を見送りました。
  ※同日の加藤有隣の日記より該当部分抜粋現代語訳。
「坂本氏出発。〔但し馬関より長崎、それより鹿児島、再び離れるという。〕」

※『榊陰年譜』文中の現代語訳の作成は、文化交流課歴史文化のまちづくり推進室の協力を得ました。






付記
※坂本龍馬、山口1回目の滞在

 慶応元年(1865)
 10月3日
 龍馬が、西郷隆盛に頼まれて、薩摩藩の使者として長州に入りました。
 宮市(現・防府市)で楫取素彦と会談。(広沢真臣とも会談か)
 薩長和解に関する重要な話なので素彦が龍馬を山口に連れて入りました。

 10月4日
   龍馬が広沢真臣、松原音三らと面談し、薩摩藩の復交の意思を伝えました。
 (そのあと龍馬、木戸孝允に会いに下関へ向かいました。)

 →逸話
  このとき龍馬に会った大津唯雪が、そのときのことを息子に話しています。
「坂本が参った時は、忙しい人たちは他所に出て内にいなかった。それで大津唯雪と松原音三が会った。山口市中では人の耳が多いから、片田舎の御堀の大和国之助(松原音三の弟)宅が静かというので、そこで会った。
 夜遅くなって月を見ながら、市中の宿屋まで龍馬を送った。
 途中、松並木の往来端で酔いざめの立小便を、みんなでした。
 そのとき、龍馬の懐(ふろころ)からピストルがころげ落ちた。
『坂本さん、あなたは、薩長連合とか何とかについては全て打ち解けてやらにゃならぬ、それについては自分は、もとより生命は棄てるつもりで来た、というお話であったが、ピストルをわざわざ懐に入れて御出でになったとは、ちと御念の入りすぎた話である、はたして生命を棄てて御出でになったということなら、ピストルのようなものは何の時に御使いなさるのですか。』
 大津がそういうと、龍馬は非常に困って、説明をした。
『じつはこれは西郷吉之助(隆盛)から貰って、万一の時に用いるものだからといってことさらに贈られたものである。実は私もこんな物を振り回しては穏やかではないと思うたが、せっかく贈られたものであるから、別に預ける人もなし、実は邪魔ながら持ってきたので、その内緒のものをあなた方に見られないように懐に入れておったが酒に酔うたためにピストルがころげ落ちたので、あなた方に化けの皮を見られるようになったが、決してピストルをふりまわすという考えはなかったので、これは甚だ恐れ入る。』
 (防長史談会雑誌掲載「毛利敬親卿事蹟の概要(第十九号の続き) 村田峯次郎講演」より)

乗福寺に龍馬会談の場の伝承がある。
乗福寺裏手に大和国之助宅があった。



※坂本龍馬、山口3回目の滞在

 慶応2年(1865)
 12月17日
 木戸孝允に同行して坂本龍馬と、長州に復交を図る土佐藩士溝淵広之丞が山口に入りました。

 12月25日
 坂本龍馬は、金古曽にある加藤有隣宅を訪ねました。
 英国海軍キング提督が近々三田尻に来ることから、英国について意見交換しました。

  ※同日の加藤有隣の日記より該当部分抜粋現代語訳。
「夜、坂本龍馬が来る。イギリス人はかつて薩摩に来て、京での攘夷開国、兵庫の一件について詰問し、薩摩藩は実際のところを返答した。あわせて建白書を渡した。その道理はもっともであると感服して去った。かつてこの秋押し寄せてきた時、一橋慶喜が宮中に参上して薩摩藩の持論と食い違い、尹宮(朝彦親王)が仲立ちして、兵庫開港の勅書を申し受け、その写しを松平作州よりイギリス人へ渡したと言う。二三日の内、また長州へもイギリス人が来て、詰問を及ぼそうとしていると言う。酒を酌み交わし深夜に至り、別れて帰る。坂本は現在小松帯刀らと内々の取り決めで、西洋船の運送船一隻をもっぱらにしているが、海軍航海の提案をやってみると言う。」

 12月26日
 有隣、和歌を思い出し、龍馬に話しました。
「神風も今は頼まし我骨は難波入江の堀之埋草」

  ※同日の加藤有隣の日記より該当部分抜粋現代語訳。
「昨年の冬、大阪の港にイギリス人が押し寄せてきた事を聞いた時に詠んだ。坂本に話してため息をつく。
 神風も今は頼むまい、私の骨は、大阪湾の堀の埋める草となるだろう。」

 このあと年末までに龍馬は下関へ移ったと推測されます。

 注)金古曽の加藤有隣宅
  慶応2年(1866)10月14日、有隣は金古曽に空き家を見つけ、引っ越しました。
  その後、増築して詠帰塾を開きました。
  明治元年(1868)に上京するまで、ここに住んでいました。

石州街道沿いの筋違橋近くが詠帰塾跡。サビエル公園に近い。

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